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アポスティーユ 国際結婚

アポスティーユを無犯罪証明書にいただくにはどうしたらよいのでしょうか?
アポスティーユっていうのは、日本の外務省で頂くものなのだとおもうのですが、
次の著作権切れの伊丹万作の文章を読みながら考えてみることにしました!
この時分はピナ・メニケリというイタリヤ女優のファンであつた。芸よりも顔の美しさに圧倒されたのであつた。あんな典型的な美しさと大きさを持つた女優はその後見ない。美しさもあれくらいまで行けば芝居などどうでもよくなつてくる。ただいろいろに動いて、いろいろな角度の美しさを見せてくれればこちらは彫刻を見ているような気持ちで結構たのしめるのである。
 私が十九か二十歳のときに松竹が映画事業をはじめ研究生を募集した。ちようどそのころ伊藤という友だちが呉の海軍書記生をやつており、かたわらしろうと芝居に熱中していた。
 ゴーリキーの「どん底」を演《だ》してナターシャの役か何かをやつたことなどを報告してきて、しきりに演劇のほうへ進みたい意向をもらしていたやさきなので、私は同じことならこれからは映画のほうが有望だと考え、松竹の試験に応募してみたらどうだとすすめてやつた。伊藤はすぐに上京して私の間借りしていた三畳の部屋へやつてきた。
 根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。
 主人は五十を越した男で、だいぶ頭も薄くなつていたし、体躯も小がらのほうであつたが、それでいて変に悪党悪党した強そうなところのあるおやじであつた。
 このおやじは家にいないほうが多く、たまに帰つてくると何もしないでたばこをすつたりひるねをしたりして日を送つた。
 いつも猿股と腹巻をしてその上に何か尻までくらいある薄いものを引つかけていた。
 話ぶりなどは何かひどく粗野で、そのために一種の滑稽感がありそれがときどき人を笑わせたが本人は決して笑顔を見せなかつた。
 それが「何しろ家のかかあのやつときたら――」というような調子で本人を目の前において、その肉体の秘密を私たちにずばずばとしやべつてのけたりするものだから、彼の若い細君はもちろん、聞いているほうでも照れたりあつけに取られたりした。
 しかもそんな話を当人は顔の筋一つ動かさずに冷酷な気むずかしい表情とすきまのない呼吸でやるものだから、その場には猥雑な感じなどの介在する余地は全然なくなつて、ただもう部屋中に妖気が立ちこめているような気持ちになつてくるのであつた。
 あるとき私は近所の七つくらいの女の子を二時間ばかり借りてきて写生したことがあつたが、その子が帰つてから、どうも少し齢のわりに小ましやくれているという批評が出たとき、このおやじはすぐそれにつづいてあの子供は性的対象として十分可能であると断定した。
「そんなばかなことを」と細君が笑つてうち消そうとすると、おやじは顔色を変えんばかりの勢いで細君をしかりつけ、さらに激しく自分の所信のまちがつていないことを主張した。
 およそ、そういうふうに性の問題に関するかぎりこのおやじの態度や考え方にはどこか一般社会の風習や秩序と相いれぬものがあり、しかもその気魄には実際彼が口でいうとおり実行しかねまじき、あるいはすでに実行してきたような切実感があつて聞くものをすさまじく圧倒した。
 私はこのおやじに会うまでは性に関する話をかくのごとく露骨にしかもむきになつていささかの臆面もなく話す人を見たことがなかつたし、また、こうまで徹底的に非道徳な態度をとつて安心しきつている人も見たことがなかつたのですつかり驚いてしまつた。
 私はこの家にかれこれ半歳以上もいたように思うが、結局しまいまでこのおやじの職業を知ることができなかつたし、また何のために入口にプロペラの破片を飾つておかなければならないのか、その理由を知ることもできなかつた。
 さて、伊藤がやつてきた当時の私の部屋には別にもう一人居候がいたので、合計三人を負担して、三畳の部屋はまさにその収容力の極限に達した。
 これにはさすがのプロペラおやじも驚いたとみえ、ある日突然二階に上つてきて我々に即時撤退を要求した。そのうち伊藤も試験にパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり、一定の給費を受けて通学するようになつたので、我々は谷中真島町の下宿に移つて別々の部屋におさまつた。
 この時分から伊藤は映画脚本の試作を始め、できあがるとまず私たちに読んで聞かせ、それから小山内先生に見てもらつた。
 小山内さんの批評はかんばしくないのが常で伊藤はたいがい意気銷沈して帰つてきたようである。しかし伊藤の努力はわりに早くむくいられて、松竹キネマ創立期の写真には彼の脚本が多く用いられた。
 松竹キネマ作品の最初の公開が明治座かどこかで行われたときにもむろん、彼の脚色になる写真があつたので私は伊藤といつしよにそれを見に行つた。
 私は伊藤との交友二十年の間に、その夜の彼ほど嬉しそうな彼をかつて見たことがない。
 かくて我々数人の所有にすぎなかつた伊藤大輔という名まえはその夜から世間の有に帰した。
 二十一歳の五月に私は入営をした。
海外に住んでいるわたしのような場合、たとえば、戸籍謄本にアポスティーユが
必要な場合は、行政書士さんとかのアポスティーユ代行業者に頼めばよいと思うのですが、
無犯罪証明って、確か、日本に本人がいないととれないんでしたっけ???
では、伊丹の文章をさらに読み進めましょう!
(この時分から伊藤は蒲田に移り住んでいたようである。)広島の野砲隊、三カ月の補充兵役である。
 入営の前夜、広島の盛り場で見送りにきた父と二人で活動写真を見た。その写真は井上と水谷の「寒椿」である。
 入営中も伊藤は筆まめに手紙をくれたが、封筒の中にはいつも、その時々の彼の脚色した写真のポジが何コマか入れてあつた。その当時のポジはみな染色されてあつたので、封筒を逆さまにすると色とりどりのポジがヒラヒラと寝台の毛布の上に舞い落ちるのは私の殺風景な兵営生活にただ一つの色彩であつた。
 その翌年にも演習召集で三週間服役したが、それを終つて東京へ出るときはあらかじめ伊藤に依頼していつしよに棲む部屋を借りておいてもらつた。青山学院の近所、少し渋谷の方へ寄つたほうで八畳か十畳の二階であつた。
 その時分には研究所はすでに解散して伊藤は松竹キネマ脚本部員となつていたが、当時伊藤の月給は九十円で、しかも仕事は無制限にやらされていた。急ぐものは二、三日で書かされ、「お初地蔵」などはほとんど一晩で書いてしまつた。それで月給以外には一文ももらつていなかつた。
 いつぽう私は※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵のほうで月百円内外の収入はあつたから、二人の生活はさして苦しいはずはなかつたのであるが、使い方がへたなためか、二人ともいつもピイピイいつていた。
 この時分に二人で見に行つた館は赤坂帝国館、葵館などがおもで、チャールス・レイあたりのものが記憶に残つている。それから当時の俳優では二人ともフランク・キーナンが好きで、この人の出ている写真はたいがい欠かさず見た。
 研究生の中で伊藤が一番親しく交際していた人に淵君というトウ・ダンスのうまい青年がいたが、この人は研究所解散後もよく遊びにきた。その後ずつと音信不通になつているらしいが、今でも伊藤と会うとときどきこの人のうわさが出る。何となく切れあじのよさそうな感じのする人であつた。
 それより以前に松竹が研究生たちを歌舞伎の仕出しに使つたことがあつた。伊藤や淵君ももちろん使われた仲間であるが、ある時歌舞伎座で「川中島合戦」をやつたとき雑兵に使われたことがあつた。
 そのときの伊藤の話によると、雑兵をやつていて中車の山本勘助に追いこまれるのであるが、中車にカツとにらまれると本当にこわくなつて思わず身がすくむような気がしたそうである。
 こんな話は青山の二階へ淵君などが遊びにきたときあたりに聞かされたのではないかと思う。青山の共同生活は半年あまりで解消になつた。伊藤は蒲田へ移り住むことになり私は新宿のほうの親戚へ寄寓することになつたのである。新宿へ移つてから従姉のおともなどをして武蔵野館へよく行つた。
 ターザンやキックインをここで見たことを憶えている。当時この館では写真の合間にオーケストラが歌劇の抜萃曲などを必ず一曲演奏することになつていたので、そのころやつと音楽に興味を感じはじめていた私にはそれがたのしみであつた。ここの指揮者は毛谷平吉という人であつた。最近「気まぐれ冠者」という写真を作つてその音楽の吹込みをしたとき大阪から来た楽士の中に混つて毛谷平吉氏がバイオリンを弾いている姿を見かけて、私はむかし懐しい想いをしたことであつたが、同氏の風貌は十数年以前と少しも変つていなかつた。
 そうしている間に私は、もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。
 そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。それから私は本気に勉強を始めた。勉強に身を打ち込んで始めて私は人生の意味がわかつてきたと同時に、いろいろなものの見方に形がついてきた。それと同時に自分の意見というものが少しずつできて行つた。
 そのころから活動写真に対する興味が次第に薄れてきた。自分の生活から活動写真の観賞を全然除外してもさらに苦痛を感じなくなつた。
 活動写真にかぎらず、そのほかのもろもろの楽しみを除外することに苦痛を感じなくなつてきた。
 ただ、文学から受ける楽しみを除外することだけは最後までできなかつた。
 ある夜、私は急に、武者小路氏の「幸福者」という小説を読みたい衝動に駆られた。私は一応この衝動と闘つてみたが遂に勝てなかつた。
 せめて一日のばしたいと思つてみたが、それすらもかなわなかつた。
 夜ふけの街を古本屋のある町のほうへ急ぎながら私の心の中はくやしさに煮えかえるようであつた。このとき私の心は全く二つに分裂してしまつていた。
「おまえは絵かきではないか。文学が何だ。武者小路が何だ。絵だけで安心ができないのか。何を求めてそんなにがつがつとやせ犬のように、夜までうろつかなければならないのだ」と一つの心は泣きながら叫びつづけた。
 それにもかかわらず、一つの心は容赦なく私の身体を動かして古本屋のほうへ追いやつた。
 その夜の苦しみは私の一生の悲劇を暗示しているようにみえる。
無犯罪証明を本人が日本で取るしか方法が無いのならば、それに付すアポスティーユも
当然自分が取るしかないことに 笑。
結局、アポスティーユをとるために日本への帰国が必須なのか????


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